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夢


古代文明と夢という社会のツール
夢は、古代から人々の生を導いてきた。意味を探す道しるべであり、癒しの場であり、神々や精霊とつながるための扉だった。エジプトでは、夢は神聖な存在からのメッセージとして受け取られ、セラピスの神殿では人々が夢を通して癒しや啓示を求めた。夢はもうひとつの現実として尊ばれ、魂が世界と対話する時間だった。
アマゾンのヤノマミにとっても、夢は個人の無意識ではない。他者、つまり森の霊、動物、人々の欲望が現れる場所であり、共同体が進む道を確かめるための知恵だった。夢は分かち合われ、村の調和を守る力となった。
現代の神経科学者シダルタ・ヒベイロは、夢は人類が生きのびるために発達させた根源的な道具だと語る。夢のなかで私たちは未来を試し、問題を解き、つながりを深める。夢は脳の働きであると同時に、文化をつくり、世界を理解するための創造的な知性でもある。
こうした古代からの知恵に触れると、夢は個人だけのものではなく、社会の形や未来をも育てる営みだとわかる。自分の夢に、そして他者の夢に耳を澄ませるとき、わたしたちはよりつながり合う新しい意識を育てていけるのかもしれない。


失った人の夢―旅立った人との出会い
夢は、亡くなった人がわたしたちに触れてくる特別な場所。そこに現れる存在は、ただの記憶ではなく、いまも生き続ける愛のしるし。ユングが語ったように、死者は「帰還」し、まだともに生きることを願っているのかもしれない。夢は別れや和解の場になり、言葉にできない思いを受けとめてくれる。喪を夢見るとは、時間を閉ざさず、つながりが終わらないことを認めること。死者は姿を変えて近くにとどまり、声や夢、沈黙のかたちでわたしたちに語りかける。ときに夢は痛みを延ばすけれど、それも愛がまだ息づいている証。だから夢を解こうとせず、書きとめ、耳を澄ませ、訪れてくれたことに感謝しよう。夢は祈りのように、終わりを超えて始まりを紡ぎなおす。


夢 ―― 目覚めの反対。でも、それだけじゃない。
夢は、ただの“現実の断片”じゃない。先住民族たちは、夢を森や死者、精霊たちとつながる場として捉えてきた。
たとえばロシア極東のエヴェンの人々にとって、昼の出来事をなぞるだけの夢は「夢」とは呼ばれない。
彼らが大切にするのは、“出会いの夢”――そこでは、目覚めの世界では出会えない存在たちと語り、学びあう。
「子どもたちは夢の中で学校に行く」と語った人類学者もいる。
夢には、まだ見ぬ世界の知恵が息づいている。
異なる世界観は、無理にひとつにまとめなくてもいい。
夢と現実、昼と夜、個と集合。
その狭間に耳をすませながら、
わたしたちは新しいつながりの地図を描いていける。


子どもたちが夢と深くつながるためにできること
子どもたちは、まだ「世界そのもの」に近くいる。夢の中では、クジラや人魚、巨大な蛇や波に出会い、ことばにできない感情を感じている。夢は、魂の奥深くから立ち上がってくるイメージ。大人のわたしたちができるのは、その夢に意味を与えることではなく、ただ耳を澄ませ、そばにいること。夢が絵になり、遊びになり、からだの動きとして表現されるとき、そこには癒しの種が宿る。夢は子どもにとって、内なる声とつながる入り口であり、未来へ向かう想像力の翼でもある。だからこそ、夢を語り、聴き合う時間を大切にしたい。家庭や学校のなかで、夢の親密さがふたたび灯されるように。夢を忘れないこと――それは、いのちの記憶とともに生きていく力を育てること。


夢が知らせてくること ―― わたしたちより先に、夢が知っていること
「悪夢は、太陽の光で乾かす必要がある」
そんな古い言葉が、夢の向こうからそっとささやく。夢は未来を予言するものではないけれど、まだ言葉にならない“兆し”や“予感”を、静かに運んでくる。夢が伝えようとするのは、わたしたちが忘れかけた、内なる感覚の声。それにただ耳をすませ、語り、書きとめ、そっと光にさらす。夢は、過去と未来のあわいで、すでに始まっている何かの輪郭を映している。怖い夢でさえ、目覚めへと誘うやさしい手。すぐに答えを出さなくてもいい。ただ、夢に居場所を与えてみよう。その行為そのものが、変容のはじまりとなる。
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